米津玄師が11枚目のシングル「Pale Blue」をリリースした。シングルは前作「馬と鹿」以来およそ2年ぶりとなっている。楽曲だけは先月31日に先行配信されており、ようやくパッケージとして手元に届いた。
▲左はジャケット絵のパズルが付いた「パズル盤」、右は昨年8月に開催されたバーチャルライブ「米津玄師 2020 Event / STRAY SHEEP in FORTNITE」の映像が付いた「リボン盤」。特典のフレグランスは仕掛けがあるので必見(必嗅?)。
このサブスク時代に「CD」に対する熱量が消えていないことが嬉しい。彼の楽曲はいつもパッケージ込みで完成するみたいな側面があって(楽曲が不完全というわけでは断じてない)、実際手に取る喜びを2021年にも感じられるのが有難い。受け手はCDを受け取るだけでその物体に対する作り手の熱量がわかってしまうものだなあと改めて感じた。筆者は「リボン盤」の歌詞カードがお気に入り。
昨年はアルバム「STRAY SHEEP」をリリースしたが、こんな世になってしまいあの名曲たちをまだライブで聴けていない。そのような最中のニューシングルリリースである。
あのアルバムを世に放った後も続く不穏な世界の中でどんな曲を生み出したのか。早速聴いていきたい。
Pale Blue
TBS系 金曜ドラマ「リコカツ」の主題歌として書き下ろされたラブソング。「離婚から始まる恋」をテーマしたドラマに寄り添うような、切なくも力強い歌詞とサウンドが美しい。イントロなしでいきなり《ずっと》と入る所がセンセーショナルで凄く胸を打たれる。
「恋」というと二人の関係性について語られるのが普遍的だと思っていたけど、この楽曲を聴くといかに恋が一方的で主観によるものかと思い知らされる。どんなに親しくて想いが通じ合ったと感じた相手でも他人は他人のまま。自分の想いは相手に向けているようで結局自分のものなんだなと。自分が恋だと思っていたものってほとんど妄想だったんじゃないかとすら感じる。
ジャケットの女の子の表情などまさに「恋をしている」様子だ。他者から見れば狂気とも言えるほど恋焦がれることに気を取られている、没頭しているのが瞳から伝わってくる。
米津的ラブソングといえばアルバム「Bremen」のイメージがあって、というのもあのアルバムは個人的に「浮き足立っている」イメージが強い。声も歌詞もむず痒くなるくらい青くて、周りも見えていないくらい何かに夢中、みたいな。実際聴いてみるとそうでもない曲もあるのだけど、リリース当時はかなりその印象があって今でも聴くとなぜか若すぎた時間を感じてしまう。
以前こんなツイートをしていた。
最近自分の歌声がどんどんシリアスになってる気がしはじめていて、過去の曲を聞き返してみるとやはりもっとカジュアルだったなと思い返す。ちょうどいいところを探しにゆきたい気分。もっと軽やかにいたいね。
— 米津玄師 ハチ (@hachi_08) 2020年10月29日
本当にその通りだと思う。年々荘厳さを増している。"Pale Blue"はこのシリアスに進化した声で歌うことで「恋」の狂気的で独りよがりな部分にもよりフォーカスされているように感じる。
ゆめうつつ
米津玄師のどこが好きかと問われたとき、筆者が真っ先に挙げるのは彼の「アウトサイダー性」である。インターネットの中にいた時も、自身の声で歌い始めた頃も、こんなに知名度を高めた今も、変わらず自分ははずれ者であり常に裏側にいる、というような姿勢を崩していない。こんなに大衆性を帯びて自身の置かれた立場を理解していながらも、自分が真ん中ではないと主張することにある種の責任すら感じているようなところに愛おしさを覚える。
"ゆめうつつ"は「news zero」のテーマ曲に相応しく深夜に穏やかな気持ちで聴ける曲、に聞こえていたけど音源化されてそうではなかったんだと思い始めた。これって米津玄師がかつて散々吠えてきた「遠くに行きたい」という欲求が詰まっているのでは?
以前と異なるのは現状のフラストレーションから逃げるための場所を外ではなく内に作っているところ。かつては距離をもって解放してきた感情の置き場を「夢」という他人が探れない、人間の深海のような閉鎖的な所に見出した。これはこの難しい世に置かれたことで生まれた変化なのだろうか。
御本人曰くかなりの怒りを持って作られたという。この怒りや不安、不満みたいな感情を彼のような方が楽曲という形で表面化してくれることが、どこか社会に生きづらさを感じている筆者のような人間の心を救ってくれているんだなと再認識できる一曲。
《声が出せるような喜びが 君に宿り続けますように 革命家の野次も届きはしない 夜の淵で踊りましょう》
死神
表題曲を生み出すのがかなり大変だったと6/15(火)のNスタで語っていた。燃え尽きた後にやりたいことやってる趣味部屋みたいなカップリング、とてもゾクゾクするので好き。
インタビューでも話されている通り有名な古典落語「死神」を曲にしたとのこと。
《アジャラカモクレン テケレッツのパー》は死神を追い払う呪文だが、確かドラえもんにも出てきた(筆者はこちらの方が先に出会って「これ落語だったのか!」となった記憶がある。確か「時限バカ弾」)。
「死神」は呪文だけでなくオチにも色んなパターンがあるので面白いし、救われたと思えば突然直下に落とされるようなドキドキ感もあるので結構お気に入りの題目。と言っても筆者は落語そんなに詳しくないのですが。
一見この曲が一番ならず者みたいに見えるけれど、1曲目に狂気、2曲目に怒りとくると"死神"には正当性すら感じる不思議。毎回毎回同じこと書いてるけど米津シングルは収録3曲のベクトルの違い、多様性に痺れる。
しかし本当にこういう曲にもザ・米津玄師という感じがある。言葉遊びや、和風な曲調 ・歌詞、酔いどれ諦念、パッパラパー、みたいな。今回はモチーフがあるけれど、こういうディープな部分にもずっと触れていたいなと思う。
なるべく近い未来に生で聴きたい一曲。暫くはライブでの米津さんの身振りを想像しながら聴こう。もし出来るならステージにたくさん蝋燭立ててほしいし米津さんが1つ吹き消して暗転とかやってほしい。
感想
インタビューを読んでいてインターネット出身者が過剰に台頭してきて市民権を得ていることを危惧しており、心地悪さすら感じているという部分に物凄く共感した。
筆者の場合はインターネット世界の話ではないがどこか「真ん中にいない人間」であるという自負があり、解りきれてもいない違和感に反抗しながら生きている節がある。だからこそ「こちら側」が真ん中になったらなったで暖簾に腕押し感があるのだ。
もちろん現状の盛り上がりは米津さんの功績による部分も大きいのだろうけれど、御本人からすれば「これは望んだ世界ではない」という感じなのかな。自身の名前が日々大衆性を帯びる中でも常に自分や周りのことを客観的に見ていて、色んなことに折り合いを付けながら生きている米津さんだからこそ覚える肩身の狭さがあるのだろう。
そんな人が徹底してJ-POPを住処としていることに何度も感動してしまう。30代に突入した米津さんの「居心地の悪さ」を発端として生み出されていくポップスを心待ちにしたい。
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